• 1997.11.14

    表参道通信その15 必要とされるという事

    表参道通信

     マザー・テレサは生前「今日の最も重い病気は、人から愛されていない、誰からも見捨てられていると感じる事なのです。」と、おっしゃったそうです。
    そういう意味では、亡ダイアナ元皇太子妃は最も重い病気に罹っていて、そしてそれが快方に向かいそうになった時に悲運の死を迎えてしまったような気がします。
    もちろん、ダイアナ元皇太子妃を個人的に存じ上げていたわけでもなく、彼女が一番嫌っていたであろうマスコミによる情報の蓄積によるあくまでも私の私的感想ですが。

    若くて、夢と希望に満ちて世紀のプリンセスになった彼女を待っていたのは、一番愛して頼りになってくれるはずの夫の不貞でした。
    最初に気が付いた時には、信じられない思いをし、でも本当に結婚してしまえば自分だけを愛してくれるのではと思い結婚したのでしょう。なんといっても自分は『妻』なのだから。でも『妻』という立場は自分を何も守ってくれない事を思い知らされます。相手が自分の夫との結婚を望んでいないのならなおさらです。
    「あなたは確かに彼の妻よ。でもそんなのは問題ではないわ。私は彼の気持さえあればいいの。」という相手に妻として戦う術はありません。
    頼りの夫に「私はあなたの妻なのよ。私だけを見て。私だけを愛して。」と言ってみても、そう言われて妻を顧みる夫は多分存在しないでしょう。

    そのうえ、強力な武器であるはずの若さも美貌も、妻になってしまった後では夫を取り戻すのに何の役にも立ちません。夫にとっては、一度手に入れてしまった花が大きくあでやかに開いても感激は薄いのかもしれません。それ以上に周りの目が妻ばかりに集中し、夫としては心穏やかではない状態だったのでしょう。

    一番愛されたい相手に、愛されない時、幸せな時には考えてもみない自分の存在価値に疑いを持ち始めます。この世に自分が存在している意味が分からなくなります。ダイアナ元妃が、過食症になったり自殺未遂をしたりしたのはそんな時だったのでしょう。
    やがて、自分の夫にどんなに愛情を求めてもかなえられない事を悟り、ボランティア活動に力を入れ始めました。そこにはダイアナ元妃を必要としてくれるたくさんの人がいたのです。必要とされている喜びに満ち、自分がこの世に生きていても良いのだと実感した事でしょう。

    最近ハヤリの、『失楽園』や『不機嫌な果実』にみられるような妻の不倫も自分を必要とされていないという欠乏感から来るような気がします。女性誌が最近よく取り上げる『自分探し』も、ただの自分ではなく「必要とされる自分」を探す旅の様な気がします。

    私が自分の仕事を続けていけるのも、必要とされている喜びがあるからです。どんなに嫌な事があったとしても、「おかげで助かりました。どうもありがとうございました。」の一言でまた意欲がわいてきます。これからもますます必要とされるように、知識や情報の蓄積や提供に努めたいと思います。

    ただ、それと同時に、どんな人間でもすべての人間が必要とされているという事を忘れてはいけないと思います。仕事上必要とされているという事は、一番分かりやすく、拠り所としがちですが、人間は人間である事、それだけでこの世に必要とされているという事を忘れてはいけないと思います。
    そうしないと、あのダイアナ元妃でさえも陥ってしまったように自分の存在意義を見い出せなくなり自分自身を痛めつけるようになります。そして定年退職したり、リストラで解雇されたりした時に自分自身まで失う事になります。
    すべての人間はもちろん、自分自身も、それだけで必要とされ、愛すべき存在であるという事を忘れないようにしたいと思います。